ワイキキビーチの王様【キング・カーティス・イアウケア追悼】

週末の「BJペン vs ジョン・フィッチ」は、「ウサギとカメ」の物語を思い起こさせる。両選手とも年齢は変わらない。フィッチは木曜日に33歳になった。ペンは32歳である。

「ウサギ」であるペンは、もはや伝説の選手になりつつある。デビュー数ヶ月後からメインイベントを張り続けている人気選手である。

「カメ」のフィッチ(23勝3敗1NC)の戦績はペン(16勝7敗1分け)を上回っているが、ペンほどチャンスに恵まれず、知名度や人気も及ばない。ペンはこれまでメインイベントを16度飾り、11試合のタイトルマッチをこなしている。フィッチはこれが2度目のメインイベント、タイトル挑戦は1度きりだ。しかしこの試合の掛け率は2対1でフィッチとなっている。掛け率でペンがここまでアンダードッグであったことはかつてないことだ。

両者に柔術を教えたデイブ・カマリロはこの試合を「才能(ペン)vs ハート(フィッチ)」の戦いであると評している(この項、出所 Yahoo! Sports)。

ジョン・フィッチ

まるで幽霊を追いかけてるみたいに、これまで僕は、一緒に練習したこともない男の話を聞き続けてきた。僕が最初にAKAにやってきたころ、BJはこのジムを離れたばかりで、他のみんなはBJと練習をしていたひとばかりだったので、BJがどんなにすごいアスリートだったか、そんな話ばかりを聞かされてきたんだ。BJの存在はこのジムでは伝説になっていて、なんだかずっとそれを追いかけているような気がする。

ケイン・ベラスケスがスター選手の首を取って持ち帰ってきてくれた様子を実際に目の当たりにしたら、なんだか水門が開いたというか、水門に石を投げつけてるような気分になる。ケインが門をぶちこわしてくれたので、ほかのみんなも、一歩踏み出してケインのいる場所に行けそうな気がしているんだ。



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昨年12月4日に73歳で逝去したハワイ出身の個性派名レスラー、キング・カーチス・イアウケアの追悼記事が、レスリングオブザーバーの1月3日号にあった。訳すには手に負えなくらいの長文だったのだが、非常に楽しい記事だったので、時間をかけて少しづつ日本語に置き換えてみた。ごく一部を、大幅に編集して紹介する。今日は前編。UFC直前にイアウケアに注目するなんて、大晦日直前に木村政彦を特集する雑誌みたいでマイペースにもほどがあるが、単なるタイミングの問題である。


プロレス引退後のイアウケアは、80年代・90年代のワイキキビーチ版「ハメルーンの笛吹き」と呼ぶのが一番ぴったり来る存在だった。イアウケアが自分のビーチスタンドで、まるで延々と続くプロレスのプロモーションのようにいろいろな話を始めると、人が大勢集まってきては聞き入った。

プロレス史に残るほとんどの偉大な口達者たちも、実生活ではプロレスからはほど遠い顔を見せるものだが、イアウケアはまるで「生けるプロモーション」のごとく、一日24時間、呼吸をするようにプロモーション・トークを繰り広げた。響く低音、大きな体格、傷だらけの額は、ローカルたちにも旅行者にも大人気だった。旅行者はともかく、ローカルたちはイアウケアのことをプロレスラーだと知っていた。1965年以前にハワイに生まれた人にとっては、テレビを通じてみたイアウケアの記憶は鮮明なのだ。

「警察官も政治家もアスリートも、ありとあらゆる人たちが、シャツを脱ぎ捨てて、ビーチでのイアウケア劇場を聞きに来ていたよ」とイアウケアの知人は語っている。

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60年代・70年代のプロレスレジェンドたちも、しばしばビーチに姿を見せた。誰もが、イアウケアがどこにいるのかをよく知っていた。イアウケアは、かつてライバルだったサミー・スティームボートと、アウトリガー・ホテルの真ん前で、カヌーやサーフボートのレンタルを営んでいた。ワイキキビーチではまた、息子のロッキー・イアウケアが旅行者向けのカタマラン船クルーズを営んでいる。


イアウケアの現役最後の試合は、1979年フロリダでのダスティ・ローデス戦で、試合中に倒れてしまったのだった。当時41歳にして、ヒザと腰を痛め、完治の見込みのない血液の病気も患っていた。血液の病気は76年頃に行った流血戦で、不潔なマットかなにかで感染したものだった。フロリダのその試合では、イアウケアの血の色はもはや透明になっていたという。ニック・ボックウィンクル所有のフロリダのコンドミニアムで、イアウケアはずっと仰向けになったまま7ヶ月間療養した。死の危機にも何度も瀕した。ある時は心拍数が毎分17回しかなかった。またあるときは、医師から余命わずかと宣告され、家族以外とは面会謝絶になったこともあった。イアウケアは近しい友人に、「毎朝目が覚めるだけで、神様の恵みだと思うんだよ」と明かしている。


実を言うとイアウケアは、ワイキキのビーチスタンドビジネスのパイオニアでもある。1980年6月11日のこと、ジャイアント馬場(馬場とジム・バーネットが、イアウケアお気に入りのプロモーターだった)が買ってくれたブギー・ボードやビーチチェア、タオル、日傘といった備品を携えて、イアウケアはワイキキビーチに出向いたのだった。そして、許可証のたぐいは持っていなかったので、とにかく一番有名なホテルの真ん前の特等席に、店を設けた。

イアウケアが何をしようとしているのか、最初は誰にもわからなかった。ホテルからの通報を受け、警察がやってきて、備品を差し押さえ、店を閉めさせた。それでもイアウケアは、翌日もその翌日もやってきた。やがて、プロレスラーにしか思いつかないような計画を思いついた。地元のセレブであるイアウケアは、まず人脈を活用して、ローカルテレビ局の撮影隊を呼び寄せた。店を開くと、いつものように警察がやってきて、イアウケアを追い払おうとする。イアウケアも最初は抵抗するが、そのうちに観念して、サーフボードに載ったまま、数人の警察官に運び出される。この様子はすべて撮影されている。すると、だれもイアウケアに触れてもいないのに、イアウケアはサーフボードからわざと転落して見せ、バンプを取ったのだった。さらに、よりリアルに見えるように、自分にブレードをあてたのである。流血王だったイアウケアの額はとても切れやすかった。その光景が放送されると、イアウケアは多くの人の同情をかった。年老いた、ほとんど身体障害者のような地元の英雄が、よってたかって警官に仕事を取り上げられ、血まで流しているのだ。これには警察もホテルもたまらず、ついにはイアウケアにビーチスタンドの生涯経営権を与えたのだった。


全日本プロレスで太陽ケアとしておなじみのマウナケア・モスマンは、イアウケアの遠い親戚に当たる。ケアがイアウケアと初めて出会ったのは小学3年生の時で、ビーチスタンドの手伝いでお小遣いをもらっていたのだという。イアウケアは、ケアが高校生時代から、プロレスに入りたいなら口をきいてやるよと言い続け、卒業と同時にロード・ブレアーズ経由で馬場に顔をつないだ。それ以来、ケアにとってイアウケアは、理想のファーザー・フィギュアであり、かつ親友でもあった。ただイアウケアは、プロレスについてのアドバイスは全く口にしかなったという。「振り返ってみれば、そういうことは自分で学び取ることが大事だ、という考えだったんじゃないかと思う」とケアは語っている。


息子のロッキー・イアウケアは次のように語っている。「父はこの町のたくさんの子供にたくさんのことをしてやった。笑顔のいい子、外向的な子、旅行者に好かれそうな子で、ことに家庭に問題を抱えているような子供のことは、ビーチでいろいろと世話を焼いていた。小遣いも稼がせていた。子供にしてはずいぶん稼げる日もあった。たくさんの子供にとっての、理想の父親像だったんだ」

イアウケアはほとんど毎日、ビーチに出続けた。リングの王はビーチの王になった。2000年頃以降、健康状態が低下し、歩き回ることが難しくなり出すと、イアウケアは朝早くにビーチに行ってスタンドを作ると、いったん帰宅、店は人に任せ、夕方になるとまた、店じまいの手伝いにやってきた。2年前から、高齢と健康状態、観光客の急激な減少を受けて、イアウケアは店をたたんでいる。

40年間連れ添った妻ジャネットは、イギリス生まれでオーストラリア育ち。イアウケアがオーストラリア遠征中に出会った。ジャネットはカーペット・クリーニングの会社を経営していて繁盛している。


「ハワイに住んでいた10代の頃、しょっちゅうカーティスのところに遊びに行ったよ。いつも僕たちにブギー・ボードを使わせてくれた」と語るのは、ドゥエイン・ジョンソン(ザ・ロック)である。イアウケアが亡くなったとき、ジョンソンは映画の撮影でハワイにいた。

テリー・ファンクによると、イアウケアがウエスト・テキサスで戦うときには、いつもドリー・ファンク・シニアの牧場に寝泊まりしていた(このことは当時の門外不出のケーフェイである)。逆にテリーがハワイに行ったときには、イアウケアの限りないもてなしを受けていたのだという。「ブルーザー・ブローディはイアウケアの大ファンだった。たくさんのことを真似たり参考にしていたよ。われわれ全員、何かしらイアウケアの真似をしたものだ。盗まれるって言うのは凄い褒め言葉なんだよ。それだけすばらしいからこそ、コピーしようとおもうんだ」


ブルーザー・ブロディはイアウケアが引退を意識し始めた1979年に、全日本プロレスでデビューした。当時からブロディは、スピードのあるパワーファイターで、いいルックスをしていた。ただ、いろんな要素がまだ完全にしっくり来ているとは言えなかった。そこでブロディは、イアウケアの雄叫びと、顔をゆがめる表情をコピーし、入場時には客席を荒っぽく走り抜けることにした。それらの要素が一つに解け合った結果、半端なく危険な男であるとの印象ができあがった。

息子のロッキー・イアウケアは「父は、ビジネスを引っ張るのは、おまえがリングの中で何をするか、ではないんだ。おまえがやりそうなことを人がどう想像するかなんだ、と教えてくれたよ」と語っている。





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