イアウケア追悼後編


ロッキー・イアウケアは、地元のスターだった父親とすごした60年代の記憶をいつくしむ。

「CBS系列のハワイの地元テレビ局で金曜夜に放送されていた、「50州プロレス」は大人気番組だった。どんな風に説明すれば分かってもらえるかな。きっとまるで、モハメド・アリの息子みたいな気分だったと思う。行く先々で、親父は一番いいものを食べ、王様のように飲み、店に居合わせた人たちにも王様のように飲ませ、親父がみんなの勘定を支払っていた。」

60年代にもっとも稼げたテリトリーだった日本とオーストラリアでも成功を収め、イアウケアはトップクラスの金を稼いだ。オーストラリアでは、プロモーション会社の一部を所有するまでになった。ただ、持ち前の気前の良さと、3度の離婚のため、稼いだカネはほとんどなくなってしまった。



イアウケア家はハワイ王室に血筋を持つ。キング・カーティスのひいおじいさんにあたる「オリジナル・カーティス・イアウケア」(おじいさんと誤記されている資料が多い)が子供の頃、後の国王デビッド・カラカウアの両親から乞われて宮殿入りし、カラカウアの義兄弟として育てられた。カラカウアが即位した後は、オリジナル・イアウケアは広報、主席補佐官役を担当した。外交面でも活躍し、ロシアのツァーであるアレクサンダー3世や、イギリスのビクトリア女王、アメリカのクリーブランド大統領にも、国王の付き人として謁見したという。アメリカによるハワイ併合、ハワイ王国崩壊の後も、オリジナル・イアウケアは保安官、州議員を経て、1920年には州知事にも就任している。

カーティス・イアウケア2世(オリジナルの孫、プロレスラー・キング・カーティスのの父親)は、ホノルル警察のナンバー2を勤めた男で、息子の馬鹿げた振る舞いさえなければ、トップになれたはずだったと目されている。

キング・カーティスは、エリート層の子女が通うホノルルの私学プナフー (Punahou) 高校で、フットボールのスター選手だった。この高校には、オバマ大統領も、ドン・ムラコも通っていたし、クラスメートには、プロレスのブッカー兼実況アナウンサーだったロード・ブレアーズ(訳注:PWF会長)の息子ジミー・ブレアーズもいた。ジミーは後にサーフィンの世界チャンピオンになる。ブレアーズ家の末っ子ローラ・ブレアーズ・チンは、70年代に女子サーファーとして初めてセレブの仲間入りをした人で、米ABCテレビの「スーパースター・コンペティション」に出演して有名になり、プレイボーイではサーフボードを抱えたトップレス姿を披露した。

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イアウケアのフットボーラーとしてのキャリアは1961年の夏に終わった。当時イアウケアは、「オークランド・レイダーズ」入団を目指して、サクラメントの強すぎる日差しの元でキャンプを張っていた。伝え聞くところによれば、その日の気温は48度を超えていて、イアウケアはとにかく疲れ切ってウンザリしていた。やがてフィールド上のスクリメージ・ラインの真ん中で、イアウケアはヘルメットを取り、パッドを外してしまった。「ヘルメットをかぶれ」とラインコーチが叫んだ。

ところがイアウケアは、「ファックユー」といいながら、さらに服を脱ぎ続けた。コーチが叫ぶたびにファックユーと言いながら服を脱ぎ、しまいにはパンツ一丁になってしまった。これを見ていたスタンフォード大学のスター選手ドン・マノキアン (Don Manoukian) も、ヘルメットを脱いでイアウケアの肩を持った。するとコーチは攻撃の矛先をマノキアンに向けた。マノキアンはイアウケアを真似て、ファックユーと返した。マノキアンとイアウケアはその後、ハワイやカリフォルニアでのプロレスのサーキットで、ヒールのフットボール・コンビとして親しくつきあうことになる。結局マノキアンもすべてを脱ぎ捨て、フィールド上でパンツ一丁になり、フットボールはもう辞める、俺はパンツ一丁でもっと稼ぐんだと語ったという。

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(イアウケアが南カリフォルニアの女性敏腕プロモーター、ビック・クリスティと仕事をしていたとき、クリスティの事務所に映画会社から、だれか相撲レスラーはいないかと連絡が入った。そこでクリスティはイアウケアを連れてオーディションに出向く)。

会場は太った男だらけだった。クリスティはイアウケアに、プロデューサーたちの前に出たら、テーブルの上に飛び乗ってパンツを下げてみなさいとアドバイスした。

イアウケアが「でも今日は下着を履いてないんですがね」と言うと、クリスティは「なおさら良いじゃない」と答えた。

そこでイアウケアは、よかれと思ってテーブルに飛び乗り、ズボンをおろした。後で分かったことだが、その場にいた審査員たちはみんなゲイで、イアウケアのアピールは圧倒的な存在感を示すこととなり、結局1963年の作品「三バカ大将のぼんやり世界一周」(Three Stooges Go Around the World in Daze) への出演が決まったのであった。

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ハワイのキング・イアウケアと、サモアのプリンス・メイビアがホットな抗争を繰り広げていた頃、その事件は起きた。二人の因縁のプログラムは何年も続いたが、当時のホノルルの民族分布を反映して、「ハワイ人対サモア人」の図式は、ときにリアルな緊張感を生み出した。ハードコア・ヒールなのはイアウケアの方だったが、会場の声援は割れており、そのことがサモア人にますます火をつけた。イアウケアはときにはちょっとした暴動を煽るようなことをしたが、そのことが警官であった父を困らせることになる。ある夜、イアウケアは場外戦でメイビアの髪の毛をトップロープにくくりつけた。メイビアはリングに生還しようとし、イアウケアはそれを妨げた。そのときに起きた暴動に警察が介入すると、サモア人ファンがレンガを投げつけ、それがイアウケアの父の部下であった警官の頭部に命中し、その警官は命を落としたのだった。

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イアウケア一家の歴史を描いているロス・ハート氏の思い出話。「忘れられないのは、カーティスとカウボーイ・フランキー・レインがスタンピード・レスリングのサーキットで移動していたときのことだ。レインはバンの後部座席で、数年前に日本で、老女に性的いたずらをして逮捕され、強制送還されたと言う話をしていた。レインは濡れ衣だと語っていた。すると、いつもはおとなしいカーティスがフロントシートから振り返って、フランキーののど笛をつかみ、まるでプロモーションをカットするかのように、「みんなの前でやってませんと言ってみろ」とすごんだ。フランキーは震え上がって、自分のしたことを認め、キングに謝罪していた」

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80歳になるディック・ベイヤー(ザ・デストロイヤー)は、イアウケア最大のライバルの一人だった。ベイヤーは毎年10月になると、ハワイにやってきては、イアウケアとサミー・スティームボート、ドン・ルーインを訪ねることを習慣にしていた。ベイヤーはスティームボート(2006年没)にかねがね、自分が死んだら、アウトリガーホテルの前の海にカヌーを出して、太平洋に自分の灰を捲いて欲しいと頼んでいた。イアウケアの死の知らせを受けたベイヤーは、「これで頼める人がいなくなってしまった」と語ったという。

全日本の新春シリーズに参加することが多かったイアウケアは、大晦日をよくジョー樋口と過ごしていたそうだ。マウナケア・モスマンは次のように語っている。「ジョーが亡くなったことを知らせるのに、電話では不十分だと思った。そしたら、伝える間もなく、イアウケアも逝ってしまった。奥さんのジャネットに電話をしたら、カーティスが死んだとジョーにもお伝え下さいなんて言うんだ。ジョーさんも亡くなったんですよと教えてあげたら、「まあ、じゃあ天国で会ってるということでしょう」と答えたという。

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小路が三崎と引退試合 4.22DEEPで15年間の現役にピリオド(スポーツナビ)

栗原あゆみ、「探偵ナイトスクープ!」の制作関係者をかたる変態男にダマされていた(カクトウログ)

事件そのものはもちろんケシカラン話なのだが、栗原あゆみには「足が蒸れる」話、華名には「足が臭い」話と、微妙なニュアンスの使い分けをしているところが気になった。

そういえば、当OMASUKI FIGHT管理人の元には、かつてテレビ東京が「どハッスル」を放送していた頃、製作会社から「どハッスル」への出演打診のメールが来たことがある。あの時はびびってたじろいだどころではなかった。本物だったかどうかはよくわからない。一応、それらしい会社名や担当者名はちゃんと書いてあった。この花も実もないおっさんブロガーを一体どうするつもりなのかと不審に思ったが、結局その後、なんとなくなしのつぶてに終わったのだった。私としても、しつこく「出演の件はどうなったのか」と問いただすほどの理由やモチベーションも持ち合わせてはいなかった。何かの企画を思いついたけれどもやっぱりやーめた、ということだったのだろうか(笑)他のブロガーさんの所にも打診はあったのだろうか。ちなみに、別にパンツの色は聞かれていないし、特に害は被っていない。




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