【書評】ブルーザー・ブロディ 私の知的反逆児


ブロディは1985年4月に新日本に電撃移籍。当時全日本でのギャラは週給1万2千ドルで外人選手トップであったが、新参のロード・ウォーリアーズにも同じギャラが支払われていることを知って不満を抱いていたブロディが、新日本に週給1万6千で移籍したという。週あたり4千ドルの攻防。馬場には踏み出せない一線だったのかもしれないが、いまやヒョードルの一試合のギャラが200万ドルであることを思うと、なんだか切ない。

同年12月のIWGPタッグリーグ戦の優勝戦を前に、ブロディはパートナーのジミー・スヌーカとともに職場放棄し帰国、古館アナはこれを「敵前逃亡」と呼ぶ。ブロディが藤波に星を譲ることを拒んだといった噂が流れる。これに対し新日本はギャラを差し押さえ。翌年8月にハワイで猪木とブロディが会談し激しい口論に。結局ギャラは支払われたものの、9月の大阪で組まれた猪木対ブロディは、なんと60分フルタイム引き分けの結果となり、テレビ放送はダイジェストのみと言う不可解な扱いであったことが思い起こされる。

87年10月、ブロディは全日本に舞い戻る。「馬場には、もう一度信じてもらわないとな。信用に応えられるところを見せないと」。ギャラは以前より下がっていた。88年3月、鶴田を破ってインターヘビー王座を獲得。翌月、UNとPWFの王者であった天龍と史上初の三冠戦を行うも両リン、宮城で鶴田とのリターンマッチに失敗。ベルトを置いて帰国し、同年7月、プエルトリコでホセ・ゴンザレスによって刺殺さる。

馬場全日本を離脱したあと、再参戦の望みが叶った選手というのは、日本人を含め、一体どれ位いたことだろう。殆どいなかったのではないか。実を言うと、再参戦時のブロディの姿は、往年の孤高で唯我独尊な姿を知るものには、少し寂しいものであった。全体的にセールが大げさになっていた。テレビの前で僕は、ブロディが丁寧に仕事をしているとは思わず、衰えたと感じていた。ハンセン・ブロディ組のファイトなど、セールとはまるで無縁だったものである。鶴田を倒したときには、リングサイドのファンの波の中に飛び込んで、涙を流しながら抱擁を繰り返していた。このけなげなファンサービスを、「らしくない、柄にもない」と、ちょっと白けてみていたものである。これが最後のファンとの抱擁になるなんて、そのときには誰にも想像もつかない。この頃、ブロディはどんな思いでファイトしていたのかに思いを馳せてしまう。

当時のブロディは、ライターにこんな事を漏らしている。

俺たちレスラーはみんな落伍者なんだ。フットボールで脱落したり、バスケットで挫折したり、大学生活でうまくいかなかったり、行き場を失った連中ばかりさ。最初からプロレスラーを目指してやってきた奴がどれ位いると思う?おそらくジャック・ブリスコやごく数人だけだろう。俺はスポーツ記者としてもフットボーラーとしても中途半端だった。レスラーなんて、たいていが臆病者さ。みんな大口を叩いてみても、群れて歩いている羊の集団みたいなものだ。



ブロディは弱気になったのかな、とのライターの質問に、スタン・ハンセンは次のようにコメントしたという。

別に気弱になった訳じゃない。人生には、もう少し違った生き方があるってことに気づき始めたんだろう。ただ猪木との契約のいざこざがフランクの自信をぐらつかせたのは事実だ。それまでは彼はいつだって自分に確信を持っていたからね。


ブロディは晩年には既に、アメリカの地方で自らプロモーターとして興業も打っていたという。そこには、若手選手の控え室にも足繁く運び声を掛ける姿があったという。選手としてもまだまだ花を咲かせることが出来ただろうが、ブロディ流の興業もまた、見てみたかったと思う。

ブルーザー・ブロディ私の、知的反逆児ブルーザー・ブロディ私の、知的反逆児
(2008/02)
バーバラ・グーディッシュ、ラリー・マティシク 他

商品詳細を見る


*****

リデルが負傷、UFC85メインカードが消滅!(MMA PLANET)

もともとリデル vs ショーグンの予定でしたが、結局両者とも負傷欠場。ショーグンの代役ラシド・エバンスがポツンと浮いている状況。
UFC公式に負傷部位の写真が。グロイ。凄い説得力でこりゃ無理だ。


スポンサーサイト

毎週更新!

Ad

Ad

MMA Update