プロレスラーに勝てなかったエリオ・グレイシー


レスリング・オブザーバが、故エリオ・グレイシー氏の追悼記事を掲載している。事実上、「グレイシー一族の歴史」のような内容となっており、自分には興味深かったポイントがあったので、以下、大幅に要約編集した上で紹介する。

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グレイシー一族に関しては、事実と虚構の区別が難しく、文書として残っている情報も多くない。ほとんどが、一族内で語り継がれる物語だ。

エリオの兄、カルロスには、21人の子供と100人の孫がおり、子供の中でもっとも有名なのはカウソンである。

カルロスは前田光世から柔術を学び、その後自分流に改良してブラジリアン柔術の基礎を作り上げた。

エリオは痩せていて病弱なティーンエイジャーで、学校にもロクに通えないほどだったので、両親からはトレーニングを禁じられていた。それでもエリオはカルロスのジムに通い、観察したことを頭にたたき込んでいった。

カルロスのスタイルはフィジカルにものを言わせた攻撃的なストリートファイト・スタイルであったが、小柄なエリオが究めたスタイルはガード技術によって大きな敵を無力化し、ミステイクを犯すかガス欠するのを待つというものであった。大きな男に負けなければ勝ち、という哲学も持っていた。

エリオの最初の戦いはストリートファイトであった。サントス某という街の喧嘩屋から挑発されたエリオは、相手のパンチをダッキングすると、あっというまに相手を流血葬。これによりエリオは逮捕され、いったん2年半の懲役を命じられるも、政界にコネを持つ弟子の一人の働きかけで、時のブラジル大統領からの恩赦を得て釈放された。その後エリオは、大統領の息子に柔術を教えている。

留守中の道場に強盗が入った際に、グレイシー兄弟が戻ってきたことがあった。兄弟は強盗に、警察に電話するか、我々のうちの誰かと5分間戦うか、どちらかを選べと迫った。強盗は痩せたエリオを指名。試合が始まって程なく、強盗は痛みのあまり、「どうか警察を呼んでください」と嘆願した。

グレイシーはプロレスを忌み嫌ってはいるが、エリオは若い頃、プロレスラーと3試合戦っている。

まず19歳の時、フレッド・エバーとというプロレスラーと戦い、14ラウンド(1ラウンドは10分)終了時点でドクターストップ、エリオは試合後緊急手術を受けている。

21歳の時(1934年)には、アメリカのプロレスラー、ワラデック・ズビスコと対戦、10ラウンド(1ラウンドは3分)引き分け。ズビスコは、1917年にはエド・ストラングラー・ルイスとタイトルマッチを重ねるなど、アメリカでも知られた選手だったが、すでに42歳で、全盛は過ぎていた。実際の試合の様子はわからないが、グレイシーの中では、二倍の体格の男に負けなかったという伝説として伝えられているという。

エリオの生涯戦績は9勝2敗7分け、殆どの試合は1930年代に行われている。

そして1951年の木村政彦戦である。木村の一行がブラジルを訪問し、プロレス興行でヒットを飛ばしながら柔道を教えていた頃、現地の新聞社がグレイシーと引き合わせた。エリオはまず、柔道5段の加藤という男と2度対戦、一度目は30分引き分け、二度目は加藤がガス欠を起こしたところ、下からのチョークで締め落とした。リングは非常に柔らかく、投げ技のダメージは少なかったという。加藤はエリオを永遠に押さえ込めたかのように見えたし、柔道ルールなら楽勝となっていたはずであった。大人気のプロレスラーを倒したことで、グレイシーは現地でヒーロー扱いとなる。木村は当時、グレイシー一門が、ここに日本人柔道家、加藤の死体が入っていると叫びながら金庫を運んでいるところを目撃している。

グレイシーは別の日本人レスラーとの対戦を要求したが、その戦術を見抜いた木村は自らの出陣を決意。このくだりは、木村の書物によるとプロレスのアングルとしては描かれていないし、当時のメディアもヤオガチ論争を行った形跡もない。

「エリオ vs 木村」は、当時ブラジル最大の2万人収容のサッカー場、Maracana スタジアムで行われた。大統領他政府高官も観戦、現地紙は一面トップで報じたという。「ブラジル vs 日本」対抗戦の煽りは、現地の日系人も大いに引きつけた。ヒーローと対戦することとなった木村の入場時には、生卵が投げつけられた。

グレイシー伝説によれば、エリオは自分より80パウンド重い男と12分戦い、事実上の勝利を収めたことになっている。実際には両者の体重差は10パウンド程度であった。バーリ・トゥード・ルールというふれこみではあったが、打撃はボディに限られており、事実上のグラップリング・ルールであったものと思われる。試合前、木村はスタジアムで金庫を見た。エリオがあなたのために用意をしたと聞いた木村は大爆笑したという。

試合は木村がグレイシーを投げまくり、後日談でグレイシーも認めているとおり、いったんはチョークで落としたが、木村はそれに気づかず試合を続行、結局、今日キムラとして知られているハンマーロック(腕絡み)を極める。エリオはタップしなかったが、何度か骨が折れる音がした挙げ句、12分過ぎ、グレイシー陣営からタオルが投入された。

90年代になってグレイシーはこの試合について、体重差が80パウンドもあったため、3分以内に決着がつかなければエリオの勝利、というルールの試合だったのだと説明している。


ちょうど木村戦の頃、グレイシーのもう一派のドン、カウソンがリオデジャネイロで道場に入る。当時の道場の強豪は、ボクシングの経歴も持つフォルデマス・サンタナで、カウソンとは親友になるが、プロレス熱が高まるにつれ、プロレス出場を志向するようになり、プロレスを忌み嫌うグレイシー一族と決別する。

そこで現地YMCAでサンタナとエリオとの遺恨戦、となるわけだが、この試合には何通りかのストーリーがある。グレイシー伝説では1962年、エリオ48歳の時のこととなっているが、他の資料では1955~56年のことだとある。いずれの資料も試合時間は3時間45分であったと共通して示している。ある説では、エリオが腕を骨折したがタップしなかったので試合が止められた、とある。別の説では、エリオが疲労のあまり失神したとある。第三の説は、サンタナが頭へのキックでKO勝ちしたというもので、この説が最も確からしいと言われている。

そこで当時20歳のカウソンが、友人でもあるサンタナへのリベンジを決意する。ここでリベンジしなければ、グレイシー一族は今頃市場でバナナを売っていたことだろうと、彼は2003年のインタビューで回顧している。

カウソンとサンタナは都合6度戦ったが、最も有名なのはその初戦、1956年8月3日に4万人の観衆の前で行われた。39分、サンタナのコーナーがタオルを投げ込みカウソンの勝利。映像の一部を見た印象は、今風のウエルター級のMMAのようであったという。カウソンによれば、彼は158パウンド、サンタナは195パウンドだったという。6戦通じて、カウソンの4勝2分けであった。

サンタナが10年前に亡くなったとき、エリオは「わしはまだ生きておる。わしの勝ちじゃな」と言ったそうだ。


エリオとカウソンは50年代後半に袂を分かった。

カウソンはサンタナとの抗争を通じて70年代のブラジルの英雄となったが、80年代はエリオの弟子、ヒクソンの時代となった。とはいえヒクソンは、ブラジルでは2試合しかしていない。いずれもレイ・ズールーにチョークで勝利したものである。

90年代に入り、エリオ派がアメリカで商業的に成功し始める。ホイスが93年と94年にUFCのトーナメントで優勝したころのカウソン「ホイスはブラジルの柔術大会で何度も負けている。自分の弟子であるブスタマンテ、ノゲイラ兄弟、フィリヨ、アローナ、ボナー、スペーヒーらは、エリオの弟子を何度も倒している。ビトー・ベウフォートはヒクソン・グレイシーに勝てる」

エリオ派内部でもホリオンとヒクソンとがビジネス面で決別、その際エリオはヒクソンの「400戦無敗」というキャッチフレーズについて、ジムで奪ったタップは数に入れてはいけない、自分なら何千勝もしていることになってしまうと批判した。


>グレイシーが負けるときには、長時間試合の後のタオル投入というパターンが多い。桜庭が90分かけてタオル投入で勝利、というのは、ある意味非常に伝統的で正統的なグレイシー殺しの方法だったわけですね。それと、プロレスと絡んでビジネスを大きくしていく、というのも、昔から定番手法だったわけですな。


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