極私的格闘技見せ物論


ベラトールFCの旗揚げ戦が4月3日フロリダ州ハリウッドで行われ、8名参加のライト級トーナメント一回戦でエディ・アルバレスとホルヘ・マスビダルがそれぞれ勝利、二回戦への進出を決めた。日本のファンからすれば、両選手とももうしばらくはアメリカで忙しいと言うことだ。出所 Sherdog
ベラトールの試合映像は毎週水曜日に公式ホームページで公開されるようだ。

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【第67回“見世物”論】(東京ポッド許可局)

【要約】

プロレスがフェイクだということだけで退けられる、川の水がどんどん浄化される。こんな風潮は問題だが、プロレス内の体制改革では難しいのではないか。

リング上の勝負論ではなくて、逆の発想で、サーカス集団が演劇要素を取り入れ、舞台装置、演出、物語性をとりいれてやっていく、という方が良いのではないか。

海外のエンターテインメントなら、水も漏らさずカチッとつくって拍手喝采となるが、日本人の「娯楽」のイメージはどうしても、もっとゆるくて半笑いなものだ。そしてすぐに危なっかしい解釈になってしまう。日本のプロレスはエンターテインメントにはならない。やはりうそでも「闘い」というフレーズがないと仕方ないし、嘘をつき続けるしかない。

ショーに最も重要なものは世界観だ。知人の奥さんがジャニーズオタクで、仲間でライブに行ったりしている。横目で見ていると、特定の誰かが好きなのではなく「みんなが好き」という状態になっている。アニメでも求心力のある作品は、キャラクターみんな好きという状態になる。「一座感」が確立していて現実味を排除している。ディズニーランドには、それぞれ独立した物語を持つミッキーもプーさんがいるが、みんなで一体感を出している。

プロレスの一般的なイメージとして、統一された世界観がない、ということがある。一座もよく分からないし、猪木も馬場もいない。落語にも感じることで、寄席に行っても談志も小朝も出ていない。ショーとして緻密な世界観の醸成が必要なのではないか。

プロレス村にもかつてイデオロギーがあった。一枚岩の思想が重しとして機能していた。長州などは本当にイデオロギー闘争と言う言葉を吐いていた。ジャニーズにも、ジャニー北川というフィクサーがおり、怪物感があり、道場らしきものがあり、ケーフェイ的な秘密がある。最強のプロレス団体だ。

シルク・ド・ソレイユは小屋作りから始まっている。プロレスも、同じ小屋とはいかなくても、おなじみの舞台装置や小道具といった世界観の構成要素と場が必要だ。

小屋が守られているのは相撲だ。一座だし、嘘をつき続けている。サーカスと同じだ。

「キタノブルー」は世界的に通じる北野武作品の世界観だ。企業にも、ソニーっぽさ、ホンダっぽさといった世界観があるものだ。

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格闘技に対する極私的な嗜好性について、このごろつらつら考えることがある。自分はもともとプロレスファンで、後にPRIDEが大好きになり(便宜的に総合メジャーと呼ぶ)、そこから総合の他のプロモーション、パンクラス・修斗・DEEPといったところ(あくまで便宜的に、総合マイナーと呼ぶ)を見るようになったという経緯を持っている。で、総合マイナー団体を欠かさず見るようになって久しいんだけど、正直言っていまだに、あまり面白いとは思っていないというか、ピンと来ていないのが実際である。むかし、RINGSを我慢して見ていたら、段々面白くなったので、そんなものかなと思っていたが、どうもいまだに総合マイナーにはうまく馴染めないでいる。うまく馴染めないのが自分でも不思議だった。

立ち技については、K-1はかなり初期から見てはいるし、いまでも欠かさず見てはいるが、正直言って大好きというほどでもない。いつ見ても60~70点くらいのテレビ番組だよなと思ってつきあっているので、それほど気持ちが盛り上がることもないし、ひどくがっかりすることもない。で、総合同様に、K-1を起点に、便宜的に言うところの立ち技マイナーである全日本キックやSBも視聴範囲を広げた。で、今の好みについて言えば、僕は立ち技マイナーが結構好きなのである。新日本キックやムエタイ・チャレンジも見れるものならみたいと思っている。K-1より好きだといっても良いくらいだ。K-1でもMaxは、立ち技マイナーに近い雰囲気があって好ましい。つまり、好みが総合とは逆になっている。総合はマスリングが好きで、立ち技では後楽園ホールが好きなのである。

てなことを考えていたときに聞いたのが上のポッドキャストで、そうか自分は「世界観」ということを求めているのだなあと思いあたったのだ。それがプロレスファンとしての尻尾なのかもしれない。ことにPRIDEは、世界観そのものだったと思う。われわれはナレーションからBGMに至るまで、世界観の維持向上を要求した。島田レフリーからレニー・ハート、フジテレビ三宅アナまで、登場するもの全部が好きだという状態になっていた。記憶に残りにくい総合マイナーの選手でもPRIDEに登場した途端にマジックがかかったように楽しめて記憶に残った。いまのUFCも、僕の目にはマイケル・バッファーからジョー・ローガンまで、全部がセットになって好ましく見えている。だからWOWOWののんびりした実況は薄味すぎて満足できない。あれは現地版にそのまま字幕スーパーを付けてくれれば本来は一番良い。ダナ・ホワイトがプロダクション・コントロールを手放したくないために、地上波との契約を何度も蹴っているのは正解だと感じる。他方立ち技のキックやSBには、舞台装置的にはチープでも、プロレス流のイデオロギーや一座感を強く感じる。シーザー一座、藤原一座なのだ。親分の厳しさと愛情、それに答えようとする選手の健気さが胸を打つ。キックには加えて、ムエタイを引いた伝統的な世界観が時に顔を出し、底が見えない感じを醸し出す。

これに比べるとK-1の世界観は僕にはもう一つ、よくピンと来ない。いっときのモンスター路線なんか、プロレスの劣化コピーにしか見えず、世界観を破壊したように思う。今はスピード重視になってきたというが、これも機を見て敏と言うよりは、単に節操がないように映る。谷川一座にも見えないし、角田一座にも見えない。Maxは魔裟斗一座だし、ローマのグラジエイターのようなテレビ画面の作りも最初は鬱陶しかったが今では目になじんだ。ただし魔裟斗が消えるとどう見えるかはまるで分からない。パンクラスはアイデンティティが豹変しすぎ。DEEPにも統一した世界観は見いだしにくいし、いかんともしがたいチープさがぬぐえない。サムライ中継で、試合の前にいちいちロックバンドの映像を流すところなんかは、意味も意図も不明すぎてひどくイライラするし、ラジカセを流しているような音質のBGMも気に障り、そんな細かいことが積み上がってしまって、肝心の試合が実際より悪く見えるような気がする。(あくまで、個人的な趣味の表明であって、DEEPなどをお好きな方を攻撃する意図は何もない。ていうか、そういいながら僕も見てるし)

じゃあDREAMや戦極に世界観はあるのだろうか。作ろうとしている努力は分からなくもないけど、まだ多くのファンに共有されるには至っていないと思う。もちろんこういうことは一朝一夕にはいかないことは理解できるが、とくにDREAMではPRIDE的なものとHERO'S的なものがときにハレーションを起こしているように見えるし、歴史の浅いプロモーションなのに早くもマンネリすら感じることもある。僕はかねて、思い切ってオクタゴンを使ってみては・・・などと書いてきた。谷川さんや佐藤大輔は、オクタゴンは見にくいのでダメ、と切り捨てているけれど、DREAMなんか、あくまでテレビコンテンツなんだから、そんなことは関係ないだろう。一つの非日常的な舞台としての斬新さは捨てがたいと思う。ほかにもたとえば、リングの色をがらっと変えるとか、たまアリからしばらく離れてみるとか、煽りVのナレーションを女性にしてみるとか、「勇気のチカラ」でもなんでもいいから一夜限りではないコンセプトを執拗に追求するとか、なにか具体的なショック療法が欲しい気がする。

もっとも、肝心の試合というコンテンツが求心力を持たない限り、いくら着飾ってみても失笑を買うだけ、というのは、第一回戦極を思い起こせばわかることなのだが、あの無理に作った世界観だって、辛抱してずっと継続していたらどうなっていたかはわからない。ナットーマン人気だってある日突然天地が逆転した。「五味、出るぞ!北岡、行くぞ!いざ!シャッキーン!」に続き五味のテーマ曲が流れたりしたら、これはこれで、鳥肌ものだったかもしれないのだ。



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