3週間でのスター誕生【三沢光晴】


Wrestling Observer 6月22日号、Figure 4 Weekly 6月16日号に掲載された三沢光晴追悼記事を自分なりに Rip, Mix, Burn して紹介する。


●ベストマッチ

オブザーバの評価では、1985年から2003年にかけて、三沢は24試合で「5つ星」を獲得した(オブザーバは最大5つの星の数で試合を評価している)。また、読者投票による年間アワードで三沢は、「ベスト・フライング・レスラー」を2度、年間最高因縁賞を2度、最優秀試合賞を5度、最優秀タッグ戦賞を3度、最優秀レスラー賞を3度受賞している。

オブザーバによる5つ星マッチには次がある(訳注 うまく数はあわないのだが・・・)。

三沢 vs 鶴田 1990年6月8日
三沢、川田、小橋 vs 鶴田、田上、渕 1990年10月19日
三沢、川田、小橋 vs 鶴田、田上、渕 1991年4月20日
三沢、川田、小橋 vs 鶴田、田上、渕 1992年5月22日
三沢、小橋、秋山 vs 川田、田上、小川 1993年7月2日
三沢、小橋 vs 田上、川田 1993年12月3日
三沢、小橋、馬場 vs 渕、川田、田上 1994年2月13日
三沢、小橋 vs 田上、川田 1994年5月21日
三沢 vs 川田 1994年6月3日
三沢、小橋 vs 田上、川田 1995年1月21日
三沢、小橋 vs スティーブ・ウイリアムス、ジョニー・エース 1995年3月4日
三沢 vs 田上 1995年4月15日
三沢、小橋 vs 田上、川田 1995年6月9日(プロレス史上最高試合との声もある)
三沢、小橋、浅子 vs 川田、田上、本多 1995年6月30日
三沢、秋山 vs 川田、田上 1996年5月23日
三沢、秋山 vs スティーブ・ウイリアムス、ジョニー・エース 1996年6月7日(年間最優秀試合)
三沢、秋山 vs 川田、田上 1996年12月6日
三沢 vs 川田 1997年6月6日
三沢、秋山 vs 川田、田上 1997年12月5日
三沢 vs 小橋 1998年10月31日(年間最優秀試合)
三沢 vs 小橋 1999年6月11日(年間最優秀試合)
三沢、小川 vs 小橋、秋山 1999年10月23日
三沢 vs 川田 2003年3月1日(年間最優秀試合)



またこれ以外に、次の試合が、オブザーバの年間ベストマッチのトップ10に入っている。

タイガーマスク vs 小林邦昭 1985年6月12日(年間最優秀試合)
三沢 vs 小橋 1997年1月20日
三沢 vs 小橋 1997年10月21日
三沢 vs 川田 1998年5月1日
三沢 vs 川田 1999年1月22日
三沢、小川 vs 小橋、秋山 1999年3月6日
三沢 vs 小橋 2000年4月11日
三沢、秋山 vs 橋本、永田 2001年3月2日
三沢、小橋 vs 秋山、永田 2002年2月17日



ちなみにジャイアント馬場認定の最高試合はこれである。1999年1月のツアーに欠場した馬場は、病室で1月22日大阪での「三沢 vs 川田」の三冠戦を見ていた。試合開始7分ほどで、川田が裏拳を放ったところ、距離感を間違えヒジが三沢の頭部に命中、川田は手首と前腕部を骨折した。その後も川田は片腕で危険な角度のパワーボム、顔面ハイキック、垂直落下ブレンバスターを繰り出し、24分15秒で勝利、三冠を獲得した。この試合は日曜深夜の放送で視聴率5.4%、占拠率50%以上を獲得。馬場はこの試合を「これまでの生涯で見た最高の試合」と涙ながらに語った。馬場が亡くなったのはそのわずか7日後のことだった。

今年5月6日に行われたGHCタッグトーナメント、潮崎と組んで優勝した三沢にとって、武道館のメインを飾るのは生涯69回目のことであった。その日の観衆は7300であったが、三沢は69回中で53回、満員御礼を達成している。


●全日本プロレス入門

三沢は元々全日本プロレス、中でも鶴田のファンだった。12歳の時、三沢は全日本でプロレスラーになろうと決意する。数年後、学校を辞めて全日本道場に入門しようとしたところ、鶴田から「自分も大学まで卒業した。キミもせめて高校を卒業しなさい。それがキミのためになる」と諭されたという。

鶴田はさらに、自分は大学でアマレスを練習し、オリンピックにも行った、キミも真剣にプロレスラーになりたいのなら、まずはアマレスで精一杯頑張りなさいとアドバイスしたのだという。


●鶴田越え

三沢を一旦追い返した時から13年後、90年6月8日の武道館大会で、鶴田はショックを受けることになる。馬場から、メインで三沢に星を譲るようにと命じられたのである。それは試合のわずか数時間前のことだった。当時のプロレスの慣行では異例の事態ではあったが、観客からの三沢コールのすさまじさに、あるいは売店での三沢グッズの飛ぶような売れ行きに、いまこそアップセットを起こすタイミングだとの直感を働かせた馬場は、控え室の鶴田に伝言を託したのだった。

その三週間前の東京体育館大会で、三沢はマスクを脱ぎ捨て、マイクを掴んで、鶴田へのシングル挑戦を宣言していた。マスク脱ぎは賭けだった。タイガーマスクは人気者だったが、大スターとまでは言えなかったからだ。しかし観客はたちまちに三沢コールで応えた。会社にとってはこれ以上は望めないほどの反応であった。

ショックを受けた鶴田は、場外カウントアウトでもよいかと馬場に伝言を返した。馬場の答えは「ダメだ」であった。

この武道館大会以降、全日本プロレスの東京での興行は200回以上連続で満員ソルドアウトとなったのである。


●馬場元子

99年1月に馬場が没する。生前の1997年頃から三沢はすでに社長の座を約束されており、98年からはブッキング業務も引き継いでいた。しかし、馬場の没後、夫人が指名した新社長は百田であった。そこで鶴田は、三沢こそがリーダーで、選手たちもそれを望んでいると夫人に進言した。鶴田はその後、役席を外され、大学教授へと転身してしまう。元子夫人は同年、結局三沢を新社長に任命する。

それでも、元子夫人と三沢は馬が合わなかった。何から何まで、考え方が違っていた。三沢は事業を拡大したかったが、夫人が現状維持と経費節減を望んだ。夫人は、プロレスのビジネスはすでにピークを過ぎており、かつての栄華は戻らないと考えていた。三沢は選手のギャラアップと健康保険の創設を求めたが、夫人は反対した。三沢のクリエイティビティは抑圧されていた。会社の持ち株比率も低いままであった。

三沢は日本テレビを訪れ、新会社設立を考えていること、登録選手のほとんどが移籍すること、元子夫人とうまくいっていないことを説明した。日本テレビにとっては、かつて来た道であった。日本プロレス衰退期に馬場がやったことと同じであった。日テレは三沢支援を即決し、新会社に出資することを決めた。ただし日テレは、このことは1年間、伏せておくようにとの条件を付けた。馬場の没後すぐに放送を取りやめることは不謹慎だと考えたからであった。


●川田利明

川田は幼い頃は新日本プロレスのファンであった。ところが高校で三沢と出会い、兄のように慕う。その三沢が川田を、全日本プロレスの方が家族的で良い会社だからと説得して入団させたのであった。

三沢と川田は素晴らしいタッグパートナーだったし、すごいシングルマッチもいくつも戦った。しかし、お互いがスター選手になった頃から、関係は悪化した。それが何故なのかは伏せられたままである。ある外人選手は、試合後の控え室で二人が殴り合っているところを見たことがあるという。プロレスの試合同様、どちらも引くことを知らず、結果三沢の顔面はボコボコに腫れ上がってしまった。三沢は翌日、腫れた顔のままで試合に出場したが、当時のスタイルではそれくらいの腫れは良くあることと、誰も疑問に思わなかったという。

一説によれば、フラストレーションの種だったのは、後輩である川田の方がおそらくいい選手であったのに、選ばれし者が三沢であったことではないかということだ。三沢がノアを設立した際にも、川田の方から「行かない」と告げたのだという。川田はやっと自分がエースになれると考えたのだろう。川田全日には新日本との対抗戦のプランもあった。実際、最初の「川田 vs 佐々木」は大きな反響を呼んだが、新日本での川田は思ったほどの動員力が無かったため、後が続かなくなってしまったのである。

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