アメリカのダラーを日本に持ち帰って田んぼをたくさん買うだ


「キンボ・スライス vs ヒューストン・アレクサンダー」が行われた先日のTUF10フィナーレ大会は視聴率2.4%、視聴者数370万。キンボの試合が瞬間最高で520万が視聴した。レスリング・オブザーバは、期待を下回ったと評価になると論じている。

TUF10の3回目でキンボがロイ・ネルソンと戦ったときには610万人が視聴し、スパイクTV史上の最高記録となった。UFC75の「クイントン・ジャクソン vs ダン・ヘンダーソン」が590万人、今回のキンボの試合は第3位。Sherdogなどより。

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●メルビン・マヌーフが今年のDynamite参戦を表明。Five Ounces of Pain

●4月から新シリーズをスタートする予定のベラトールのマッチメーカーが辞任。この人はブランドン・ヴェラやエド・ラトクリフらのマネージャでもあるという。これでベラトールには常勤のマッチメーカーが不在となり、当面CEOが兼任するという。詳しい事情は報じられていないが、再出発前にどことなく不吉なニュースだ。MMA Weekly より。

他方でベラトールがレスリング五輪出場歴があるNCAA王者、ベン・アスクレンと契約したと発表した。こちらはグッドニュース。アスクレンはかねて、ストライクフォースと契約するものと見られていた。アスクレンは春に始まるウエルター級トーナメントに出場予定で、このトーナメントにはダン・ホーンバックルも出場予定となっているという。MMA Fanhouse より。

●デニス・カーンがUFCを解雇された。このほか、ブロック・ラーソン、ジェイソン・デントらも。BloodyElbowより。

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ハッスルが事実上消滅…わずか6年で終止符(スポーツナビ)

DREAMと戦極の大連立に加わる?スマッシュ(スポニチ)

【ボクシング / キック系】 三浦広光がクルーザー級でプロボクサーテストに合格 < 涙 (NHBNewsPro)
三浦のような選手が日本のMMAで仕事を得られないのは、やっぱりこの世界はマネジメント7割ということなのだろうか。逸材が流出してしまったように思う。WECでのカルロス・コンジット戦は素晴らしかった。それにしてもバックボーンを柔道に持つ選手がボクシングに挑戦というのは器用なものだなあと思う。ボクシングでチャンピオンになって欲しい。

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レスリング・オブザーバ1月12日号、殿堂入りしたマサ斎藤の略歴紹介記事より、個人的にへえと思ったところをごく簡単に紹介。抄訳。

●自分を排除しようとする動向に感づいて、豊登はハワイで二人と三日三晩過ごし、日プロは政治の場と化してしまっているので一緒に離脱しようと働きかけた。斎藤はまだスターになる器ではなかったが、なんと言っても豊登は自分を採用してくれた人だし、新会社東京プロレスでエースの座を約束されていた猪木にはカリスマ性があると見ていた。しかし新会社は長くは続かなかった。日プロがNWAメンバーであったことで、外人選手のブッキングが阻まれた。とはいえ、ジョニー・バレンタインを招聘できた際には、大阪球場で猪木とのUSタイトル戦を成功させるという実績も上げた。斎藤は当時23歳で、東京プロレス唯一の大卒であったことから、社長に任命されていた。67年1月に会社が倒産すると、斎藤は各種書類を取りそろえて,4月には渡米した。

●会社の社長として、斎藤は自分自身にアメリカの就労ビザを取得することができた。彼にとってはそれが目的だったのである。子供の頃から、彼の目標はアメリカに住むことであった。異国情緒にあこがれたのである。子供の頃のお気に入りのレスラーは、ジェシー・オルテガであり、フレッド・ブラッシーであり、エンリケ・トーレスであった。レスリングこそが日本を離れ世界を見るためのチケットだと考えていたのである。オリンピック選手なのに、プロレスでは下から始めなければならない。しかも、斎藤と杉山、草津の三人は鳴り物入りの入団だった。斎藤は道場の生活を好まなかった。嫉妬からのイジメで辞めさせようとする他のレスラーたちが嫌だった。

●斎藤はオリンピックでは7位に終わったが(64年東京五輪)、アメリカではテリトリーによって銀メダリストか金メダリストと誇張されていた。80年代後半から90年代にかけては、40代後半とは思えない斎藤の若々しい姿のために、68年とか76年の五輪メダリストだと宣伝された。テレビ中継でもあまりにしきりにメダリストだと宣伝されたので、多くの関係者もそれが本当のことだと思っていた。

●(斎藤の渡米後のタッグパートナーであった)渋谷キンジはサンフランシスコ地区のヘッドライナーであり、タッグチームのスター選手だった。プロモ・ワークの90%は渋谷が行い、斎藤は余り英語を話さなかったので、いつもおきまりの「アメリカのダラーを日本に持ち帰って田んぼをたくさん買うんだ」という台詞を吐いていたという。

●1972年、日本でプロモーター抗争が発生すると、新設の新日本プロレスも、瀕死の日プロも、どちらも斎藤を獲得したがった。NWAメンバーであることを利用して、日プロは斎藤の新日本行きをブロックすることも出来た。しかし、日プロ崩壊後、坂口征二とマイク・ラベルのコネクションを通じて,斎藤はついに74年に新日本に登場することが出来た。そして、72年韓国五輪選手だったクァク・クァンウンの指導者となった。



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