トニー・ホームの数奇な人生

 1月9日に47歳で亡くなったトニー・ホームの追悼記事が、例によってレスリング・オブザーバに掲載された。Heavy.Com にもいい記事があった。この二本の記事からハイライト的に紹介したい。どちらかといえば、数奇な人生として描かれているのが印象的だ。


 トニー・ホームの人生はまるでジェットコースターのようだった。新日本プロレス・WWF・リングスでメインを張り、政治家であり作家であり俳優であり歌手であり、ボクサーでありストロングマンでありストリートファイターでもボディガードでもあり、TVスターでもあり、その上ランディ・クートゥアのデビュー戦の対戦相手でもあったのだ。

 ・・・ホームには謎めいた雰囲気がつきまとっていた。1990年の秋に新日本プロレスのレスラーによって見いだされたとき、彼は日本にいて、人気ロックバンド、チープ・トリックのボディガードを務めていた。・・・ホームは自分がいかにハリウッドのセレブに通じているか、プロレスのビジネスにも詳しいかを吹聴した。彼は、南カリフォルニアのハーブ・エイブラムスのもとで、トニー・ザ・バイキング・ホームとして多少プロレスもかじっていた。新日本の多くの選手は彼に良い第一印象を持たなかったが、なにせあの体格とルックスである。ホームのプロレス歴など、日本では殆ど知られていないこともあって、ホームはプロレスラーとしてではなく、ボクサーとしてプッシュされることとなった。別のスポーツから来たアウトサイダーとして、彼をスターに育てていくというアイデアだったのである。

・・・新日本プロレスはホームの目新しさに注目していた。プロレス経験は殆どなかったが、同じようなタイプの恐竜パワーのグリーンボーイ、レオン・ホワイトをビッグ・バン・ベイダーに育てたノウハウもあった。当時の新日本はイケイケで、業界最高のワーカーを抱えていた。トップ選手には対戦相手をスターにする技術があったし、長州力にはスターを作るためのブッキング術があった。この若い大男が、対プロレスラーで無敗のボクサーであるというのは、とても良いアイデアに思えた。

振り返ってみれば、そのアイデアがうまく行ったのかどうかの評価は難しい。新日本は好調だったし、ホームもスターレスラーを倒しつづけたことから、記憶に残る選手ではある。ただ、彼が受けたプッシュほどには、歓声を勝ち得ていたとは言えなかった。それでも、ファンは彼をリアルファイターだと信じていたし、トップ選手だと認めてもいた。

・・・ホームに与えられたギミックは、プロボクシングのチャンピオンであり、新日本の選手との試合は異種格闘技戦と呼ばれた。彼をプッシュするために、いろんな選手が一役買った。シュータータイプとして売り出されていた橋本真也、パワーファイターのベイダーやスコット・ノートンもそうだ。ホームのデビュー戦は1990年10月前橋で、ソウルテイカーに3R、KO勝ちを収めている。

・・・ホームは別に子供の頃からプロレスを見ていたわけではなかった。ホームはまるでトイレにも行かないスターのような空気を醸し出していた。ベイダーやホーガン、アルティメット・ウォーリア、ビル・ゴールドバーグなどと同じように、体格に恵まれてデビュー時点からプッシュされ続けた選手にはよくあることだった。ホームはまるで、レイガンスや斉藤からの手ほどきをマスターし終わり、プロレスと言うものを理解しているかのように振舞った。でもそう思っているのは彼自身だけだった。

リング外でホームは、スコット・ノートンやロード・ウォーリアー・ホークとトラブルを起こした。ストリートファイトでノートンをKOしたらしいという噂が広まり、舞台裏ではシュートで最強の男との評判もたった。

実際にノートンとホームの間に何があったかについては、いろんな説がある。ある筋によれば、ホームはノートンに、自分のほうが優れたレスラーであるなどと吹き、いったんは他の選手が割って入ったものの、後になってホームが、指輪をはめたままでノートンを殴りつけ、KOしたということだ。ただ別の説によれば、それはノートンがよそ見をしていた時の不意打ちで、さほど感心するような話でもなかったということらしい。とにかく、90年代初期の日本のインサイダーたちの間では、シュートで最強なのはホームとスティーブ・ウイリアムスだとささやかれていた。

ホークは新日本のレギュラー選手となり、日本人陣営に属してヘルレイザーズとして活躍していた。ベビーフェイスだったホークはホームのことを、有意義なヒールに成長する余地があるのではないかとみていた。しかし気持ちは消して交わることがなかった。ホークはある日の試合後、ホームにアドバイスをしようとした。しかしホームはまるで耳を貸さず、あなたよりも客のわかせ方はよくわかっていると答えてしまった。ホークは、いい試合とは何か、人の記憶に残るにはどうしたらいいかなどをホームが理解するのは無理だと嘆いた。

レスラーたちの間にホームへの確執、ノートンが報復する恐れが高まっていたため、新日本では事態をどうするか、内々に決をとった。その結果は外部には漏れていないのだが、その頃からホームは星を落とすことが多くなり始めたし、ノートンはその後も長く、レギュラー参戦し続けることとなった。

ノートン報復の噂は耐えることがなかったが、結局何も起きなかった。ホームは星を落とし続け、93年6月に新日本を離れた。

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ホームの最初のMMAの試合は1997年5月10日、ジョージア州アトランタで開催されたUFC13であった。ヘビー級トーナメントに参加したもので、最初の対戦相手は米グレコローマン・レスリングで何度も優勝しているランディ・クートゥアで、クートゥアもまた、デビュー戦であった。「ヤツの手足をもぎとってやる」。ホームは戦前に大胆な発言をしていたが、小さな男に何かが出来るという考えはほとんど持ち合わせていなかった。

グレイシー柔術が世に出てからすでに4年、グラウンドでのディフェンスはどんなに体格差があっても必要だという認識は広がっていた。しかしホームは、そんなことは自分には関係がないと思っていた。ホームをUFCにブッキングしたのは、プロレス時代の武勇伝を知っていたリック・バスマンだった。バスマンは、ショーンとジャスティンのマッカレー兄弟にホームのトレーニングを依頼した。兄弟は1ヶ月のトレーニングのスケジュールを組んだが、ホームは一度も姿を見せなかった。

大会の数日前になって、ホームはようやく、ロスアンゼルスのジーン・ラベルのジュードー・ジムに練習に現れた。ラベルは初期UFC選手の一人で、ベニー・ユキーデとともに、グレイシーに対抗するキックボクシング軍団を形成していた。生徒の中にゴーカー・シビシアンがいた。MMA戦績には乏しかったが、 ラベルの威光とトークのうまさで教則本を売りさばく謎の存在だった。短いスパーリングでホームはシビシアンにアームバーを極められてヒジを脱臼した。ホームは結局2分しか練習しなかった。それでも試合前のインタビューでホームは、誰も自分から一本を取ることは出来ないとうそぶいた。

「ひどく恐ろしかったことを覚えているよ」と,クートゥアは310パウンドのモンスターのいる金網に入ったときのことを語る。「シアトルでテレビを見ていたお袋は、腕を抜いてやるなどというトラッシュトークをきいて泣いていたらしい。えらいことに手を染めてしまったなあ、なんてクレイジーなんだと思った」

試合はまず、ホームが粗っぽいストリートファイト風の強打を繰り出した。しかしクートゥアにまるでダミー人形のようにテイクダウンを取られ、さほど強くないパウンドを打ち込まれた。嫌がるホームが裏返ったところ、クートゥアが不慣れなチョークを極めて57秒で勝利した。これがホーム唯一のMMAの試合となった。

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1999年頃までに、ホームは母国でセレブになっていた。90年代後半に帰国してからは、フィンランド版の「アメリカン・グラジエーター」のような番組に、ビキンキ・ザ・バイキングとして出演していたからだ。ここから彼は活動を広げてゆく。

レコードは何枚か出したが、なかでも自分自身を歌った曲「ビキンキ」(Viikinki) は99年にフィンランドでゴールドディスクを獲得した。本は4冊出版、なかでも「神は慈悲深いが、俺はそうではない」が有名。2つの映画にも出演した。講演活動も開始し、「ドラッグディーラーは全員ロシアの牢屋に入れろ、なぜならあそこはうんと厳しい場所だし、コストの節約も出来る」などと主張し始めた。

これ以上の移民を許すまじ、等と主張する極右のトゥルー・フィン党から2003年に国会議員選挙に出馬、貧困層の支持を集め当選。評論家は、選挙民の現状への抗議の現れだと分析したが、人種差別的な極右勢力の台頭を危険視する向きもあった。

当選の翌日、彼はフィンランド大統領タルヤ・ハロネンのことをレスビアンだと呼んだ。レスビアンが大統領になれるなら、自分が議員になってもおかしくないだろうという話だった。ハロネン大統領はたしかにマニッシュな顔立ちではあったが、レスビアンではなかった。フィンランドのマスコミは大騒ぎとなった。ホームは後に、侮辱するつもりはなかった、大統領がレスビアンであるような気がしただけだが、実際には違っていたと謝罪した。政治家ホームはタブロイド紙に始まり、結局そこから脱出することはなかった。

その数ヶ月後、彼は家庭内の争いごとで拳銃を撃った。けが人は出なかったが、拳銃は不法所持だった。ホームは,鎮痛剤とアルコールのせいだったと説明、ドラッグテストの結果ステロイドが陽性となり、警察が自宅からステロイド剤を押収した。ホームは、知らない間に飲み物に混入されたと説明した。その後彼は昏睡状態に陥った。彼の公判は国内で生中継され、4ヶ月の職務停止処分を受けたが、議員を辞職することはなかった。

2006年には意識混濁で精神病院に収容されたり、肝硬変と診察されたり、すい臓炎を患ったりした。永年の飲酒のせいであった。その年は国会は病欠し続け、任期終了後に障害者登録された。去年の12月に掲載された新聞のインタビューでホームは、短期記憶がなくなっていると語ったが、それでも政治の本を書きたいと語っていた。

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ホームの死後、フィンランドでは、ある著名な女優兼ニュースレポーターが,フィンランドのマスコミはダブルスタンダードを使っていると指摘、大きな論争になっている。彼女によれば、ホームが議員だった頃には彼をバッシングしていた、その同じ新聞が、亡くなった後でヒーロー扱いしているのはどうかしているということだ。彼女はホームのことを、でくの坊の家畜だと決めつけ、愛すべき人物ではないと評している。女優に対しては記録的な数のクレームが寄せられており、ホームの人生について、現時点でホームを批判するのか否かについての論争が巻き起こっているという。



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