ダニー・クロファット・インタビュー


懐かしいダニー・クロファット(本名フィル・ラフォン)のインタビューが SLAM! に掲載されていた。抄訳で紹介する。

この3月、(カナダの)エドモントンで行われたモンスター・プロレスリング大会のリングで、フィル・ラフォンは5年ぶりの復帰戦を行った。

・・・1961年オンタリオ州 Mantouage に生まれ、ケベック州モントリオールで育ったラフォンは、19歳の時に家を出てカルガリーに向かった。大好きだった女性を追いかけていったのである。他の多くのプロレスラーと違って、ラフォンはプロレスファンですらなかった。

カルガリーのジムでラフォンは、当時スタンピード・レスリングで活躍していたデイビーボーイ・スミスとダイナマイト・キッドに声をかけられ、その縁でハート・ダンジョンで練習をするようになった。

「自分がプロレスラーになるなんて、思いもよらなかった」と語るラフォンは、その後20年間、リングで生計を立てることになる。

「厳しかったけど、ミスター・ヒトがジャパニーズ・スタイルを叩き込んでくれたのがよかったね」

スタンピードで2年過ごした後、マリタイム・レスリングでレネ・ローグ(レネ・デュプリーもデビュー当時はこの名前を使っていた)として戦っていた頃、ラフォンはキューバン・アサシンに目をかけられ、日本にブッキングされる。

日本こそ、ラフォンがいまでも心を焦がす場所だ。「初めていったときに、すっかりはまってしまってね。スタイルが気に入ったんだ。シリアスでソリッドで、ハリウッドっぽくない。スポーツとしての側面に真剣さがあって、そんなところが本当に好きだった。規律の正しいところもね」

ラフォンとファーナスのタッグチーム、カンナム・エキスプレスは8年も続いた。タッグとしての成功をラフォンは、役割分担がしっかりできていたからだと分析している。「僕がワーカーで、ダグはマネージャ、というのが基本線だった」。全日本プロレスで二人は、アジアタッグ王座5回獲得というレコードを持っている。

日本を離れたラフォンとファーナスは、アメリカに戻ると進行団体ECWでデビュー、サブー・RVD組との熱戦を繰り広げた。1996年にはWWFに移籍、カンナム・コネクションとしてサバイバーシリーズでデビューし、オーエン・ハート、ブリティッシュ・ブルドッグ組を破っている。その後もベビーフェイスとしてタイトル戦線で活躍した。

1997年、ラフォンのキャリアに大きな変化が訪れた。大会会場に向かう途中に、同乗していた車が事故にあったのだ。

「運転はシド・ビシャスがしていて、自分は助手席にいた。フラッシュ・パンク(2コールド・スコルピオ)とダグが後部座席にいた。ビシャスがサンルーフを開けようとしていて、車をコントロールできなくなったんだ。車は4.5回転した。気がついたら、病院にいた」

「事故の後は金がかかって仕方なかった。5ヶ月くらいで復帰し、あちこちの大会に出たか、うまくいかない。ECWから連絡があっていってみたら、『どんなに一生懸命考えても、君らのためのギミックが思いつかない。だから3ヶ月間の休暇をやる』、といわれて、もうそれっきりさ」

・・・ごく最近、ラフォンはアルバータで開催されたWWE大会で旧交を温め会う機会があった。「昔の仲間はいいな。ジョニー・エースやディーン・マレンコともあいたいなあ。みんなで旅をしていた頃が懐かしいよ。」

・・・これからのキャリアでは、ラフォンは人にお返しをしていきたいのだという。「今はソーシャル・ワーカーになるための学校に通っているんだ。できれば、依存症のカウンセラーになりたい。人を助けるのが楽しいんだ。自分もアルコール依存から立ち直ったし、そのときに多くの人から支援してもらったことを本当に感謝しているんだ」



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ブロック・レスナーのWWE時代のマネージャ、ポール・ヘイマンのブログより。

ある金曜日の午後、スティーブ・オースティンは、まるでお菓子の最後の一切れを食べられてしまったみたいに、RAW製作チームに怒りをぶちまけた。もっと新鮮で、見逃せないようなマッチメークはできないのか。メインカードに新しい血は入れないのか。どうして人材を無駄使いするのか。この頃のRAWはどうしてこんなにRAW(生煮え)なのか。

その週末、月曜日のRAWの予定は何度も見直された。ビンスも、ライティングチームの仕事ぶりをいちいち嫌っていた。そして、日曜の夜遅く、すっかり書き直されたスクリプトがメール発送された。アトランタ州ジョージアから生中継のマンデーナイト・ローのメインイベントは、ナンバーワンスターのスティーブ・オースティンと、アマレス王者「ネクスト・ビッグ・シング」のブロック・レスナーの対戦だとかかれていた。

ついにもめ事がファンの目にさらされることとなる。

オースティンはビンスが到着する前に、ジョージアの会場を立ち去った。ビンスにとってこれほどの屈辱はない。何せビンスは、喧嘩が大好きなのだ。ブレット・ハートに殴られたことは、キャラ「ミスター・マクマホン」のきっかけとなった。ストーンコールドが家具でも投げつけてくれればどうなっていたことか。

しかしオースティンはビンスにそんな満足を与えなかった。スティーブはもう終わっていた。もうたくさんだった。レスナーが勝つことになっていたことだけが問題だったのではない。そもそもこんな試合を組んでしまうところに、会社のやり方はよく現れていた。

・・・「オースティン対レスナー」が問題なのではない。この試合が、全くビルドアップされることなく、この試合がふつうに月曜日の夜に組まれてしまうこと、ビンスの顔色をうかがって前日の夜にドタバタと出してくることこそが問題なのであった。

スティーブは帰宅した。ブロックは感情を荒げることはなかった。実際、その8年後にブロックも、まるでビルドアップしないであの試合をやるのはあほらしいアイデアだったと語ってくれた。そしてスティーブとブロックは、このことについての話をする機会がなかった。

その2年後、ブロックのWWEでのお勤めが終わった。スティーブ同様、ブロックもある種の事柄にフラストレーションを抱えていた。ブロックはMSGでのレッスルマニア20で、ビル・ゴールバーグと対戦した。試合を盛り上げるべく、この試合にはゴールバーグの引退がかけられた。で、この試合のゲスト・レフリーが、スティーブ・オースティンだった。当時のオースティンはビンスと和解し、「保安官」ギミックを演じていた。

その試合は2004年3月14日に行われた。

その6年後のニューヨーク。

UFCヘビー級王者ブロック・レスナーは、地球上最強の男を象徴している。スティーブ・オースティンは、プロレス引退を表明しないまま、できる限りプロレスを遠ざけ、映画俳優としての道を歩んでいる。

そんな二人の友人と夕食を囲んでいると、返す返す、本当に奇特な人たちだなあとの思いに駆られる。

プロレスの水にあわなかったレスナーは、史上初めて、NCAAとWWEとUFCのチャンピオンとなった男で、PPV売り上げの第一人者である。

オースティンも、プロレスのPPVの第一人者であり、グッズをもっとも売る男であり、引き時を知って、美しく威厳をもってマットを去った。

われわれ3人は、それぞれ過去のすばらしい実績を横に置いて、新しい仕事や夢に向かって進んでいる。染みついた本能は抜けないものだ。

僕とオースティンとレスナーで、笑いながら食事をともにしている。ふとこんな考えが頭をよぎる。「これって、レッスルマニアのすごいメインイベントになるよなあ」

まあ、生まれ変わったらそのときはね、ビンス。



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アメリカ時間土曜日のストライクフォースCBS中継のテレビCM枠が完売したとSherdogが伝えている。CBSの人は、毎回毎回、スポンサーが見つけやすくなっていく、などとうらやましい発言。

米でブラジリアン柔術の技磨く=女性会社員の稲葉さん(スポーツナビ)
黒帯だそうで。すごい。

ジーン・キニスキーさん(81)が14日、死去した。キニスキーさんはガンの闘病中だった。AWA、WWA、そして66年から69年までNWA王者として、ビリー・ワトソン、キラー・コワルスキー、エドワード・カーペンティアらと抗争を繰り広げた。

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