人前に出るときにはいつでもジャケットを着て、いいホテルに泊まりなさい【ジーン・キニスキー】


アリスター・オーフレイム、DREAM欠場の弁。もうあちこちで訳出されているようなので、趣向を変えて関西弁バージョンで。

ブレット・ロジャーズに勝った後は、ちょっとゆっくりしようと思てたんや。DREAMが何か言うてたけど、練習に戻るのもかったるくてなあ。そしたら、アルロフスキーとDREAMのヘビー級タイトルマッチをやらんかと言い出した。それはおいしいなと思ったんで、ホリデイをあきらめて練習を再開したちゅうわけや。

そしたら練習中に、アルロフスキの話が流れたことを聞いた。そのあとティム・シルビアやらミノワやら、対戦相手がころころ変わりよる。ほんで、タイトルマッチも流れたと聞いた。ほなら、今回の試合はナシやということやね。

翌日、サンホセに飛んで、ヒョードルの試合を見た。その頃、リコ・ロドリゲス戦のうわさ話を聞いた。ハッキリ言うとくけどな、わしはリコ・ロドリゲスと戦うとも言うとらんし、DREAMと契約もしとらんのや。試合があると思い込んでるならリコにはすまんことや。チケットをこうてくれたファンにも申し訳ないわ。ま、そういうことよ。ほなな!



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ストライクフォースのスコット・コーカー、バティスタに萌え萌え

バティスタがMMAをしたいというから、いろいろ考えとるんや。まだ契約はしとらんよ。でもまあ、将来の可能性は大ありや。

ハーシェル・ウォーカーとおんなじように、バティスタも取りあえずジムにぶち込んだ。ああ、どのジムでもかまへん。ある程度有名なジムならな。そこで練習してもらう。そうでないと、話にならん。

ま、ボビー・ラシュリー戦はおもろなるわな。

うちはサーカス団体や無いぞ。けど、ブロック・レスナーをみてみいや。あいつはブレイクしよった。バティスタもどうなるかわからんでえ。うしし・・・



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昨夜のゲームプランは、とにかく辛抱してチャンスを待つことだった。彼を捉えていたとき、レフリーは「ストップするぞ」と言い続けていた。1Rの終わりにかけて、身体が動かなくなってきた。ラウンドのインターバルでは、足がすっかり動かなくなり、全身がけいれんしているようだった。心配は大丈夫だったが、ボディがダメだった。でも何が出来ると言うんだ?立ち上がって戦うしかない。

2R、サッサとフィニッシュしないとマズいぞと思っていた。ブロックも同じことを考えていたと思う。でも足が死んでいたので、自分にはもはや、テイクダウンを防御する力はゼロだった。後はご覧の通りだ。








大相撲:名古屋場所中継を中止…NHK、放送以来初めて(毎日新聞)

ザ・シネマハスラー「ACACIA」(ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル)

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レスリング・オブザーバ6月16日号に、4月14日にガンで亡くなったジーン・キニスキーの追悼記事があった。ごくごく一部を抜粋して紹介しておく。


プロレス歴史家の Michael Kenyon はこう記している。「キニスキーの最初の8年間の活躍を振り返ってみると、彼がいかに早く、トップレベルの大会のメインイベンターに駆け上がり、そこにとどまり続けたかということに改めて深い感銘を受ける。1953年から73年あたりまで、彼の全盛期を通じて、キニスキーはその時代のプロレスラーの中でもっとも稼いだ選手だったのではないかとの強い感触を持つ。なにせ、ほとんど休みを取らないで、セントルイス・トロント・モントリオール・インディアナポリス・ミネアポリス・ウィニペグといった場所で大きく稼ぎ続けたのだ・・・」


キニスキーはドリーファンク・ジュニアに、「もしスターになりたいのなら、人前に出るときにはいつでもジャケットを着て、いいホテルに泊まりなさい。そうすればみんながこの職業を尊敬するようになる」と教え込んだ・・・彼自身も試合以外ではいつもジャケットを身につけ、インタビューを受けるときには高価なたばこを口にし、高級ホテルに宿泊した。ファンに定期的にお金を払ってもらうためには、上品で本物のセレブだと見てもらうことが必要だと考えていたのである。


キニスキーはそれまでのNWA王者とは違っていた。ベビーフェイスだったテーズ・ワトソン・オコーナーとは違い、巨体のヒールだった。レスリングもやらなかったし、他の選手とは違うリング・サイコロジーを持っていた。こんにちサイコロジーとして教えられているものに則して言えば、キニスキーのようなノンストップにぶっ飛ばし続けるスタイルにはサイコロジーなど無い。それでも、彼のやることは当時は効果を上げていた。最初の2年間、彼はチャンピオンとしてチケットをよく売った。3年目以降は何故か、それほどでもなくなった。


バンクーバー地区での最大のライバルはドン・レオ・ジョナサンだった。モルモン教徒で、320パウンドの巨人で、大男としてはプロレス史に残るアスリートである。二人は20年間にわたって対戦し続けた。ジョナサン「最初のダンスは55年か56年ごろだったかな。リングに上がると、まるでサイクロンに襲いかかられたようだった。太ももの裏側を強く蹴られたので倒れ込んでしまった。立ち上がり際に、私は拳で彼のアゴを砕いてしまった。下の歯3本が唇から出ていた。試合後、自分のしたことを反省して、ジャック・ダニエルズのウィスキーと、キューバ製のたばこ一箱を持って謝りに行った。8ヶ月後、モントリオールでまた彼と戦った。ロックアップしたときに、彼はこうささやいたんだ。ウィスキーはなくなった。たばこもすっちまった。また殴ってくれや。」


日本でのデビューは1964年のワールドリーグ・トーナメント戦で、優勝候補の一人だった。馬場とのライバル関係を築き、日本ではハンセンと並ぶ馬場のライバルと見られている。両者はシングルマッチを6度行い、3度は45分間のフルタイムドロー、1度は8Rドロー、二度は場外カウントアウトで馬場の勝ちだった。トーナメントでも優勝戦まで勝ち進んだが、豊登にカウントアウト負けを喫した。キニスキーは、64年5月14日に横浜でカリプソ・ハリケーンとタッグを組んで、豊登・吉村道明組からアジアタッグを獲得、5月29日に札幌で馬場・豊登組に王座を明け渡した。


1967年には、「テーズ vs 力道山」以来のNWA王者として来日した。当時の日本では、アメリカのタイトルよりも、馬場が持つインターナショナルのベルトの方をプッシュする力学があった。たとえばWWWF王者のサンマルチノが来日しても、馬場との試合に掛けられたのはインターナショナルのベルトだけだった。同様にキニスキーもチャレンジャーとして来日、1967年8月10日満員の田園コロシアムで両者リングアウト。このあと馬場自身も生涯のベストマッチとしてあげる、有名な大阪球場での65分の死闘につながる。

1968年の来日ではキニスキーは猪木を下し、馬場とは45分フルタイムドローを二度やった。当時の馬場は有名外人選手を片っ端からピンフォールしていたが、サンマルチノとキニスキーは例外だった・・・結局馬場が日本でキニスキーからピンをとったのは、1975年のチャンピオン・カーニバルだった。キニスキーは鶴田、デストロイヤー、猪木、大木から星を得たが、これらの選手は誰も、シングルマッチでキニスキーから星を取り返すことは出来なかった・・・・


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